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被害者本人に過失が認められなくても、被害者と一定の関係にある者を「被害者側」として捉え、被害者側に過失があったと認められるときは、過失相殺することができます。
「被害者側の過失」とは何か、「被害者側」に含まれるか否かの判断基準と運用例について、見ていきましょう。
「被害者側の過失」が問題になるのは、おもに、被害者本人に過失が認められなくても、被害者と一定の関係にある者の過失が関係している場合です。
被害者本人の過失と被害者側の過失の両方を認定し、あわせて過失相殺することもあります。
過失相殺は、被害者と加害者の間で損害の公平な分担を図る制度ですから、被害者自身に過失がなくても、被害者と一定の関係にある者の過失を斟酌することが公平であるとして、過失相殺が認められます。
親が目を離した隙に、幼児が道路に出て事故に遭うというケースは少なくありません。こういう場合、幼児には道路が危険という認識が十分備わっていませんから、被害者本人の過失は否定されますが、親には監督上の過失があり「被害者側の過失」として過失相殺されます。
例えば、3歳の幼児とその母親が、赤信号を無視して道路を横断中に自動車事故に遭い、幼児が負傷した場合を考えてみましょう。
被害者である幼児にのみ着目すると、3歳の幼児に事理弁識能力はありませんから、過失相殺されません。
しかし、この場合、親が一緒にいて、しかも信号を無視して横断中に起きた事故です。加害者が全額損害賠償する義務を負うとなると、過失相殺の公平の理念に反します。
ちなみに、歩行者が赤信号で横断を開始し、車両側の信号が青だった場合、過失相殺率認定基準(判タ38号)によると、歩行者の基本の過失相殺率は70%です。
また、被害者である幼児に対しては、母親も共同不法行為者の立場になります。運転者が幼児に損害の全額を賠償し、あとで、過失のある母親に対して過失割合に応じた求償をするのが、本来的な筋道です。
しかし、母親と幼児は、同居して生計を一にしているでしょうから、加害者がいったん賠償金を全額幼児に支払い、あとで母親に求償するというのは、回りくどい方法で、現実的ではありません。
そこで、経済的に一体の関係にある者の過失については、被害者本人の過失と同視して過失相殺するというのが、「被害者側の過失」の考え方です。
被害者側の過失を斟酌して過失相殺すれば、求償の循環が省け、紛争を1回で解決でき合理的です。結果として、加害者と母親との連帯責任を分割したことになります。
「被害者側の過失」の考え方は、被害者が幼児の場合など、被害者本人に事理弁識能力がなく過失相殺が認められない場合の不公平を是正するために出てきたものですが、いまは広く類推適用されるようになっています。
例えば、妻が夫の運転する車に同乗していて他の自動車と衝突し負傷した場合、運転していた夫にも過失があれば、「被害者側の過失」として過失相殺されます。
民法は、「被害者に過失があったときは、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の額を定めることができる」(民法722条2項)と定めています。
「被害者の過失」には、広く「被害者側の過失」も含むと解されています。
民法722条にいわゆる過失とは単に被害者本人の過失のみでなく、ひろく被害者側の過失をも包含する趣旨と解するを相当とする。
⇒最高裁判決(昭和34年11月26日)
それでは、「被害者側の過失」の「被害者側」には、どの範囲まで含むのでしょうか?
「被害者側」の範囲について、最高裁は「身分上・生活関係上一体をなす者」という基準を示しています。
被害者側の過失とは、被害者本人である幼児と身分上ないしは生活関係上一体をなすとみられる関係にある者の過失をいうものと解するのが相当である。
⇒最高裁判決(昭和42年6月27日)
「被害者側の過失」を考慮する場合に「被害者側」に含まれるか否かは、「身分上・生活関係上の一体性」で判断します。ただし、これは抽象的な基準なので、個別に判断することが重要になります。
「身分上一体をなす者」とは、被害者と相続・親族関係にある者が該当します。「生活関係上一体をなす者」かどうかは、被害者と同居しているか、生計を一にしているか、などを考慮して判断します。
さらに、実際に求償の循環が行われるか、といった観点から「一体性」が判断されます。
昭和42年の判例は、被害者が幼児の場合の「被害者側の過失」に関するものですが、その後、「身分上・生活関係上一体をなす者」という基準を援用し、配偶者に過失がある場合にも「被害者側の過失」として過失相殺することを認める判断を示しました。
夫の運転する自動車に同乗する妻が右自動車と第三者の運転する自動車との衝突により損害を被つた場合において、右衝突につき夫にも過失があるときは、特段の事情のない限り、右第三者の負担すべき損害賠償額を定めるにつき、夫の過失を民法722条2項にいう被害者の過失として掛酌することができる。
⇒最高裁判決(昭和51年3月25日)
昭和51年の判決では、「被害者側の過失」を「被害者の過失」と同視して過失相殺する合理性についても言及しています。
このように解するときは、加害者が、いったん被害者である妻に対して全損害を賠償した後、夫にその過失に応じた負担部分を求償するという求償関係をも一挙に解決し、紛争を1回で処理することができるという合理性もある。
「被害者側」に含まれるか否かの判断基準、すなわち「身分上・生活関係上一体をなす者」の判断について、具体的な運用例を紹介しておきます。
あくまでも運用例で、個別事情により判断が異なる場合があります。
夫婦、未成年の子と親、同居して経済的にも一体関係にある兄弟などは、「被害者側」の範囲に含まれます。
監督義務者である父母の過失は、「被害者側の過失」として過失相殺されます。
「他人の不法行為によって死亡した幼児の父母が、これによって自ら受けた精神上の苦痛に対する慰藉料を請求する場合に、父母の一方に事故の発生についての監督上の過失があるときには、その双方の請求について右過失を斟酌することができる」
(最高裁判決・昭和44年2月28日)
夫婦は、婚姻により、身分上・生活関係上一体となりますから、被害者側の過失として斟酌されます。
例えば、夫が妻を乗せて運転中に事故に遭い、妻が負傷して、その損害を賠償請求する場合、夫に過失があれば「被害者側の過失」として、過失相殺されます。
ただし、法律上の夫婦であっても、婚姻関係が既に破綻しているような場合には、「被害者側」と認められないこともあります。
夫が妻を同乗させて運転する自動車と第三者が運転する自動車とが、右第三者と夫との双方の過失の競合により衝突したため、傷害を被つた妻が右第三者に対し損害賠償を請求する場合の損害額を算定するについては、右夫婦の婚姻関係が既に破綻にひんしているなど特段の事情のない限り、夫の過失を被害者側の過失として斟酌することができるものと解するのを相当とする。
(最高裁判決・昭和51年3月25日)
身分上・生活上の一体性が認められれば、内縁関係にある者も「被害者側」に含まれます。
内縁の夫婦は、婚姻の届出はしていないが、男女が相協力して夫婦としての共同生活を営んでいるものであり、身分上、生活関係上一体を成す関係にあるとみることができる。そうすると、内縁の夫が内縁の妻を同乗させて運転する自動車と第三者が運転する自動車とが衝突し、それにより傷害を負った内縁の妻が第三者に対して損害賠償を請求する場合において、その損害賠償額を定めるに当たっては、内縁の夫の過失を被害者側の過失として考慮することができると解するのが相当である。
(最高裁判決・平成19年4月24日)
婚約していた者や、近く婚約して将来結婚する予定であった者の過失は、身分上・生活関係上の一体性があるとはいえないので、「被害者側の過失」とは認められません。
被害自動車の運転者とこれに同乗中の被害者が恋愛関係にあったものの、婚姻していたわけでも、同居していたわけでもない場合には、過失相殺において右運転者の過失が被害者側の過失と認められるために必要な身分上、生活関係上の一体性があるとはいえない。
(最高裁判決・平成9年9月9日)
同居しているか、生計を一体にしているか、実際に求償の循環が行われるかなど、身分上・生活関係上の一体性があるかを具体的・総合的に判断します。
実兄の運転する自動車に同乗中、実兄の過失も原因となって事故が発生し受傷した被害者(妹)について、同女が既に結婚して別世帯を構え、生計を別にしている場合には、実兄の過失は被害者側の過失として過失相殺をすることはできないとした事例があります。
(名古屋地裁判決・昭和47年6月14日(判タ№283))
祖父母が孫の面倒を見ていて、孫が事故に遭ったときなどは、判断が分かれることがあります。
最高裁の基準に照らせば、祖父母が同居していて生計を一にしていれば「被害者側」の範囲に含まれますが、同居しておらず家計も別なら「被害者側」には含まれません。
ただし、祖父母が一時的に父母の監護についての履行補助者となったと認められると、「被害者側」に含まれる可能性があります。
3歳6ヵ月の女児の事故について、祖父が父母の補助者として同女の監督に当たっていたものと認められるから、祖父の付添中の不注意は父母の責に帰すべきものであるとして、祖父に監督義務者としての過失を認めた事例があります。
(高松地裁・昭和44年8月27日(判タ№239))
被害者本人と「身分上・生活関係上一体をなす」と見られるような場合に限り、「被害者側の過失」とみるのが最高裁判例の立場です。
したがって、家事使用人の過失を「被害者側の過失」と認めた判例(最高裁判決・昭和42年6月27日)はありますが、これ以外では制限的です。
例えば、保育園の保育士や子守を頼まれた近所の主婦などの過失は、監督義務はありますが、「身分上・生活関係上の一体性」はないので、「被害者側の過失」とはなりません。
なお、「被害者側」とは認められない監督義務者に民法709条の過失がある場合は、その監督義務者は加害者と共同不法行為の関係に立ちます。
保育園の保母が当該保育園の被用者として被害者たる幼児を監護していたにすぎないときは、右保育園と被害者たる幼児の保護者との間に、幼児の監護について保育園側においてその責任を負う旨の取極めがされていたとしても、右保母の監護上の過失は、民法第722条第2項にいう被害者の過失にあたらない。
(最高裁判決・昭和42年6月27日)
例えば、単に職場の同僚や友人の車に同乗したというだけでは、同僚・友人の過失が「被害者側の過失」とはなりません。
被害自動車の運転者とこれに同乗中の被害者が同じ職場に勤務する同僚である場合には、他に特段の事情のない限り、過失相殺において被害者側と認められるために必要な身分上、生活関係上の一体性があるとはいえない。
(最高裁判決・昭和56年2月17日)
雇用されている者(被用者)の過失は、原則として「被害者側の過失」として斟酌されます。企業が被用者の活動で成り立っているのですから、当然といえるでしょう。
例えば、被用者である運転者の過失によって使用者が負傷した場合、「被害者側の過失」として過失相殺されます。
被用者の過失を「被害者側の過失」として斟酌できるかについては、大審院のころから、被害者の被用者の過失を斟酌して、損害賠償額を減額していました。
これは、使用者責任(民法715条)との均衡を考えれば明らかでしょう。
被用者が、業務中に第三者に損害を与えた場合には、使用者が被用者に代わって第三者に対して損害賠償責任を負います。これが使用者責任です。
逆に、使用者が第三者から損害の賠償を受けるときにも、被用者の過失による賠償責任分は、第三者ではなく使用者の側で負担するのが、損害の公平な分担という過失相殺の理念にかなうというわけです。
「被害者側の過失」という考え方は、損害の公平な分担を図る過失相殺制度の趣旨からすれば合理的なことには違いありません。しかし、「被害者側」の範囲をむやみに拡大解釈することは、被害者救済の理念に反します。「被害者側」の範囲を限定することが大切です。
被害者本人以外の第三者の過失が過失相殺の対象となるのは、被害者本人とその第三者が「身分上・生活関係上」一体をなし、第三者の過失を被害者本人の過失と同視しなければ不公平であると認められる場合に限ります。
保険会社から「被害者側の過失」として過失相殺を迫られ、納得できない場合は、交通事故の損害賠償に詳しい弁護士に相談することをおすすめします。
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