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保険会社側は、「低速度衝突では、むち打ち症の発症はあり得ない」として、治療費の支払いを拒否する場合があります。その根拠とされているのが、無傷限界値論(閾値論)です。
現在は、無傷限界値論(閾値論)は否定され、低速度での追突という理由だけで、むち打ち損傷の受傷を否認することはできなくなっています。
もっとも、低速度衝突の場合には衝撃が小さいのが通常ですから、保険会社側は、受傷を否定し、治療費の支払いを拒否したり、受傷を認めても、早期に治療費を打ち切ることは、今もあり得ます。
無傷限界値論(閾値論)とは何か、どうやって否定されることとなったのか、詳しく解説します。
従来、むち打ち症(むち打ち損傷)は、外力により頭頸部に「むち打ち運動」が生じ、頸部が生理的可動範囲を超えて過伸展(後屈)・過屈曲(前屈)することにより発生するとされてきました。
むち打ち損傷の発生メカニズムをこのように捉え、頸部の過伸展・過屈曲を生じるような外力の閾値を設定し、外力がその閾値に達していなければ、受傷は絶対ありえないとするのが、「無傷限界値論(閾値論)」です。「無傷限界値理論(閾値理論)」とも呼ばれます。
頸部の生理的可動範囲は、前屈で60度、後屈で50度とされています(一般財団法人 労災サポートセンター『労災補償障害認定必携(第17版)』295ページ)。
シヴァリーらの実験(後掲)を初めて我が国に紹介した松野正徳「追突とムチウチ症(上)」(モーターファン1966年11月号)では、後方へ平均61度とされているようです(日本交通法学会編『人身賠償・補償研究第2巻』判例タイムズ社154ページ)。
無傷限界値(閾値)としては、次のような見解が有力です。
それぞれ詳しく見てみましょう。
シヴァリーらの実験(1955年)は、実際の車両同士を時速 7マイル(約11㎞/h)、時速 8マイル(約13㎞/h)、時速 9マイル(約15㎞/h)、時速 10マイル(約16㎞/h)、時速 20マイル(約32㎞/h)で追突させ、車両に搭乗させたダミーと生体の挙動を観測したものとされています。
実験結果は、次のようなものです。
追突速度 | 被験体 | 頭部加速度 | 頭部後屈角度 |
---|---|---|---|
7マイル(約11㎞/h) | ダミー | 2.5G | 15度 |
8マイル(約13㎞/h) | 生体 | 5G | 32度 |
9マイル(約15㎞/h) | 生体 | 2.9G | 34度 |
10マイル(約16㎞/h) | ダミー | 11.3G | 69度 |
11マイル(約32㎞/h) | ダミー | 11.4G | 84度 |
※ 時速8マイルの実験では被験者を非緊張状態におき、9マイルの実験では緊張状態においた、とされています。
時速10マイル(約16㎞/h)で、ダミーの頭部の後屈角度が、人体の頸部の平均的後屈限度(50度ないし61度)を超え、それ以下では限界を超えていません。このことから、時速16㎞未満の追突速度では、頸部の変形は生理的限界を超えないので、むち打ち症は発症しない、といわれているのです。
「16㎞/h未満の追突では受傷しない」とする見解については、もともと「16㎞/h以上では首の生理的限界角度以上になるわけだから、むち打ち症の発生モーメントとなりうるであろう」という表現だったものが、「16㎞/h未満の追突では受傷しない」という公式として広まったようです。
(東京三弁護士会交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会「むち打ち症に関する医学・工学鑑定の諸問題」判例タイムズ№737 20ページ注41)
メルツらの実験(1967年)は、ボランティア(生体)1例と死体2例をスレッド(特定条件で加速・減速状態を発生させられるようにした実験用の台車)に乗せて動かし、頸部のトルク(回転力)や回転角度等を観測・算出したものとされています。
前向きの加速度3.2G(時速10マイルの追突相当)を加えたときに、頭部の初期位置からの最大後方回転角が、死体1例で62度、他の死体1例では46度、ボランティアでは41度であったと報告されているようです。
この実験結果から、無傷限界値論(閾値論)の立場で多くの鑑定をしてきた法医学者らは、「むち打ち症を受傷するには、頸部が50度以上後屈しなければならない……。この実験結果は、ヘッドレストのない座席に座っていて、追突を予知せずに追突された場合、前向きの加速度3G付近に、むち打ち運動による頸部損傷の下限があることを示している」と、平均加速度3Gを閾値として設定しているのです。
しかも、「追突によって3Gの加速度が発生しなければ、どのような着座状態でも、むち打ち症は生じない」「3Gを超える衝撃が加わらないと、いくら頸椎に加齢的変化があっても受傷しない(閾値は下がらない)」と断定しています。
加速度とは、速度の時間的変化のことで m/s²で表されます。g(大文字でGとも書かれます)は、9.8m/s²です。
衝撃の大きさはg(またはG)で表されます。gは重力加速度のことです。地球上では、あらゆる物体に対し、下向きに1秒ごとに9.8m/sずつ速度が増すような力が働いているのです。負の加速度は、減速度ともいわれます。
車両の衝突などでは、車両や乗員に生じる加速度に不規則な波(高低)があり、その波のピークに相当する部分を最大加速度といい、平均加速度と区別しています。最大加速度は、平均加速度の約2倍になり、乗員の頭部に生じる加速度は、車両に生じる加速度の約2倍~2.5倍になるとされています。
(参考:北河隆之「いわゆる『鞭打ち症』に関する『賠償医学』的アプロウチに対する批判的検討」日本交通法学会編『人身賠償・補償研究 第2巻』判例タイムズ社 161~162ページ注12)
低速度追突事案につき、保険会社側から、無傷限界値論(閾値論)にもとづき、被害者の受傷を否定する工学鑑定・医学鑑定を駆使して、債務不存在確認訴訟を提起する例が多発していました。
そんな中、東京地裁民事第27部(交通部)において、無傷限界値論・閾値論を否定する注目の判決が出ました。
停止中の被害車両に加害車両が追突した事故について、追突時の加害車両の速度を10㎞/hと認定したうえで、追突時の被害者の姿勢に注目し、外傷性頸椎症候群等の症状(従来、むち打ち症として理解されていた症状)の発生を認め、症状固定日まで約29ヵ月間の通院治療を認めたのです。
事案は、昭和57年11月17日、信号待ちで停止中の被害車両(普通乗用自動車)に加害車両(軽四輪貨物自動車)が低速度で追突した事故です。被害者(原告)は、この追突事故により傷害と後遺障害を負ったとして、損害賠償を求めて提訴しました。
加害者側は、「衝突速度が時速15キロメートル以下では、頸椎に過屈曲・過伸展は生じず、むち打ち症は発生しない」「原告の傷病は詐病であり、そうでないとしても職業病であって、本件事故と因果関係はない」と主張して争いました。いわゆる無傷限界値論(閾値論)を根拠とする主張です。
これに対し、裁判所は、追突時の加害車両の速度が約10㎞/hであったと認定したうえで、「原告は、赤信号のため停止中、運転席に座ったまま上体を伸ばしてかがみ、助手席前の床に落ちた荷物を取ろうとしたところ、加害車に追突された」とし、「通常の姿勢を取っていれば身体に傷害を生ぜしめるようなものではなかった」が「本件事故の際には、前記のように極めて不自然かつ無防備の態勢であったため、不意を突かれた原告は、外傷性頸椎症候群及び腰部捻挫」の傷害を負ったと判示しました。
衝突速度10㎞/hで外傷性頸椎症候群等の傷害を負ったことを認め、「衝突速度が時速15㎞以下では、頸椎に過屈曲・過伸展は生じず、むち打ち症は発生しない」とする無傷限界値論(閾値論)を否定したのです。
事故後の急性期症状とその後の症状の経過については、次のように事実認定しています。
これらのことから、「原告の症状は腰痛の点も含めすべて本件事故と相当因果関係があるというべきである」と判示しました。
この判決では、「むち打ち症」や「むち打ち損傷」という言葉は使われていません。この事故による被害者の頸部の傷病名は、外傷性頸椎症候群です。
もともと「むち打ち症」や「むち打ち損傷」は、頭頸部が鞭のようにしなって過伸展・過屈曲することにより頸部痛等の症状が発生する、という受傷機転に由来する用語ですが、この「むち打ち症」や「むち打ち損傷」という言葉が、「追突による頸部捻挫」あるいは「追突ショックによる神経症状」と全く同義に使われるようになりました。「追突による頸部捻挫」や「追突ショックによる神経症状」のうち、頭頸部のむち打ち運動を受傷機転とするものを「むち打ち症」「むち打ち損傷」と呼ぶのであって、「追突による頸部捻挫」や「追突ショックによる神経症状」そのものではありません。
本件のように、追突時の被害者の姿勢その他の条件によっては、頭頸部のむち打ち運動を生じなくても、他覚的所見のない頸部損傷(いわゆる「むち打ち症」の症状)が発生することがあるのです。
支倉逸人 信州大学医学部教授(当時)によれば、①人間の上体が直立している状態で脊椎に前後方向から衝撃が加わる場合と、②脊椎が水平状態にある場合に腰から頸の方向に衝撃が加わる場合(特に、頭部が前方のダッシュボードなどに接していて前方に圧迫される場合)とを比較すると、②の方が脊椎が直接衝撃を受けるため、もともと脆い神経などは比較的軽微な衝撃によって損傷を受けやすい。①の場合には「むち打ち運動がなければ損傷が発生しにくい」が、②の場合には「むち打ち運動がなくても損傷は発生する」とのことです。
(北河隆之「時速10キロメートルの追突で被害者の姿勢を重視し外傷性頸椎症候群の発生を認めた事例」日本交通法学会編『人身賠償・補償研究第2巻』判例タイムズ社 19ページ注9)
自動車事故などで頚部を受傷した後に、画像上異常を認めないにもかかわらず、長期間にわたって頚部痛などの症状が続く事実があり、「むち打ち損傷」とも呼ばれてきました。現在は、外力によって発生した多様な頚部愁訴を包含する症候群として「外傷性頚部症候群」とされることが多くなっています。
(参考:山下仁司「外傷性頚部症候群と脳脊髄液漏出症の歴史的背景」臨床整形外科 2023 Vol.58 No.11 医学書院 1303ページ)
保険会社側からの無傷限界値論(閾値論)にもとづく「工学鑑定」や「医学鑑定」については、弁護士会、裁判所、臨床医(整形外科医)など各方面から批判的な見解が示されていました。
無傷限界値論(閾値論)にもとづく「鑑定」は、基本的に次のような論理構成となっています。
「工学鑑定」は、追突速度や車体の変形量やスリップ痕の長さなどから、人体に働いた衝撃力を数学的に算定するのに主力が置かれます。
「医学鑑定」は、工学的手法によって衝撃加速度などを導き出し、無傷限界値(閾値)を設定して、外力がその値に達していなければ受傷を否定する点では「工学鑑定」と同様ですが、さらに、症状の経過から後遺障害の存在を否定したり、医学的他覚所見のないからと「詐病」や「賠償性神経症」と決めつけて切り捨てたりします。
東京三弁護士会・交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会は、1990年に「むち打ち症に関する医学・工学鑑定の諸問題」(判例タイムズ№737(1990.11.15))を発表し、むち打ち症を否定する方向で行われていた工学鑑定や医学鑑定の問題点を指摘し、被害者救済の必要性を訴えました。
工学鑑定では、車両の損傷(車体の変形量)から被害者の受けた衝撃(加速度)を推定し、その加速度とダミー等による既存の実験データの数値とを比較して、受傷の可能性の有無を判定する手法がとられます。
このとき参照される実験データが、シヴァリーやメルツの実験結果です。特にメルツらの実験は、ほとんどの鑑定や低速でのむち打ち症を消極的に解する論文で引用されています。この実験結果にもとづき無傷限界値(閾値)を設定することについて、東京三弁護士会・交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会は、次のような問題点を指摘しています。要点のみ挙げておきます。
むち打ち症に関する医学鑑定の多くは、保険会社側の依頼により作成される「私鑑定」で、次の2つを理論的特徴としています。
それぞれの点について、東京三弁護士会・交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会は、次のような問題点を指摘しています。
むち打ち症に関する医学鑑定の主流は、むち打ち症の発生メカニズムを重視し、無傷限界値(閾値)を中心とする考え方です。外力が無傷限界値(閾値)に達していなければ、受傷は絶対ありえないとします。
本来、医学鑑定においてこそ、被害者の人体の個別性に応じた慎重な医学的検討が加えられるべきであるのに、工学鑑定の手法をそのまま援用するものにすぎません。
無傷限界値理論(閾値理論)に対し、臨床医学、特に整形外科の立場からは、「むち打ち損傷の症状の強弱は、必ずしも物損の程度と比例しない」「無傷限界値を定めることなど、とても無理」との見解が大勢です。
1990年4月13日に名古屋で開催された第63回日本整形外科学会学術集会のパネルディスカッション「頸部外傷性症候群(頸部捻挫)」において、整形外科の医師らは、次のように発言しています。
症状の強弱が必ずしも物損の程度と比例しない例もある。私は日常診療で、玉突き、女性、助手席、追突されると分かっていなかった例、多少とも横を向いていた例、無症状だったがレ線上頸部脊椎症がみられた例、などに本症が出やすいことを経験している。(車体が)ほとんど前に出なかった例でも、後席の荷物が床に落ちたり、頸部に疼痛を覚えている例もあるので、シート上の人体には鞭打ちメカニズムが生じているのではなかろうか。
(本症は)それほど大きな外力でなくても発生しうると考えられる。……この外傷の発生には一定の外力の閾値を定めることは、とてもとても考えられない。
(北河隆之「『頚部外傷性症候群』再論」日本交通法学会編『人身賠償・補償研究第2巻』判例タイムズ社 189ページ、197ページ)
(東京三弁護士会交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会「むち打ち症に関する医学・工学鑑定の諸問題」判例タイムズ№737 17ページ)
むち打ち症に関する医学鑑定のもう一つの特徴は、医学的他覚所見のないむち打ち症を「詐病」や「賠償神経症」と決めつけることです。
しかし、他覚的所見がないからと、短絡的に、詐病あるいは心因性の賠償神経症、外傷性神経症と決めつける法医学鑑定については、臨床医の立場から重要な指摘がなされています。第63回日本整形外科学会学術集会のパネルディスカッション「頸部外傷性症候群(頸部捻挫)」における発言を挙げておきます。
ここで論じられている疾患は、交通事故に特有なものではない。労働災害、スポーツ、自損事故でも起こっており、その臨床の病態は全く同じものである。(難治例についても)ほとんど他覚所見がない。しかし、患者さんの言うことをじっと聞いていると、医学的知識のない患者さんが全く同じことを皆が言う。これはレントゲン写真撮っても把握できない……。いままでの我々は、何かがあるんだけれども、何かがつかめないという状態で対応してきたんです。
器質的なものがはっきりしない患者も含めて、たくさん治療しているんですけれども、賠償が全く関係ないという人がいます。……そういう人の症状をよく聞くと、賠償が絡んでいる人と症状の動きから、症状の性質、ほとんど変わらない。治療に対する反応も変わらない。非常に難航している経過も変わらない。……賠償問題に絡んで、賠償神経症だと鑑定するのは、実際に患者さんを診ていると、非常におかしいと思います。
他覚的所見の問題については、頸椎損傷の後に起こっている状況を、今、私たちが全て見つけられるわけではないということを念頭におかなければならない。……今のメソッドでは見つけられない、分からない範囲の損傷が起こっているということも一応念頭においておかなければならない。……他覚的所見ということで全てをつかむことができないということを、念頭に置かなければいけないと思います。
整形外科的にレントゲンを見て何もないということから、他覚的所見がない(とされますが)、他覚的所見がないのではなくて、我々の今の医学の力ではとても発見できないようなものが、脳幹から内耳に至るまでいろいろあるのではないかという気がいたしております。
このように臨床医の多くは、本症の医学的解明度について極めて謙虚な姿勢をとっており、他覚的所見を見出せないからといって、これを「日本の奇病」「打算病」などと避難し、法的保護の必要性を否定することは、科学的な態度からはほど遠いものである、と指摘しています。
(東京三弁護士会交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会「むち打ち症に関する医学・工学鑑定の諸問題」判例タイムズ№737 19ページ)
保険会社から提出される医学・工学鑑定書(意見書)については、裁判所も一定の批判的判断をしていました。
1990年5月19日に行われた東京弁護士会弁護士研修講座において、東京地裁民事27部(交通部)の原田卓裁判官が、次のように話しています。要旨のみご紹介します。
訴訟において証拠として提出される賠償医学者の意見書は、もっぱら保険会社側から依頼と報酬を受けて書かれたものである。
その意見書は、被害者を直接診断することなく、主として保険会社から提出された、カルテ、看護日誌、診断書をもとにして判断したものが多く、保険会社に有利な意見であるからこそ、証拠として提出するのであろうが、決まって保険会社側に有利な意見である。
保険会社から報酬を受けている限り、それに従属的になるのはやむを得ないかもしれないが、証拠として出される賠償医学者の意見は、当該被害者の治療を担当している臨床医(この中には一流大学病院の一流といわれる整形外科医もいる)の見解とは際立った対立を示すということがある。
このような医学上の対立を見ていると、賠償医学者が言うような、むち打ち症についての医学水準というものが確立していると、とても思えない。
自動車工学にもとづく意見書は、これも決まって保険会社に有利な意見、すなわち「当該交通事故を解析した結果、むち打ち症は発症しない」という意見書が提出される。
これらの工学的意見書を書く人には、名前を聞くだけでどういう内容かが分かる人もいる。というのは、書いてくる意見書というのは、定型文書のほんの一部を変えた程度のものだからである。使用している数式も高校の物理の教科書に出ている程度のもので、タイヤの状況、摩擦係数、あるいは積荷の状況などはあまり考慮されず、実にラフな意見書といってよいかと考えられるものもある。
保険会社側から提出されるこれらの工学意見書の信頼性には、かなり疑いがあるのではないかと思われる。
(参考:東京三弁護士会・交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会に「むち打ち症に関する医学・工学鑑定の諸問題」判例タイムズ№737 5ページ注6、東京三弁護士会交通事故処理員会編集『新しい交通賠償の胎動』ぎょうせい 20~21ページ)
2002年3月16日に行われた東京三弁護士会交通事故処理委員会創立40周年記念講演「交通事故賠償の実務と展望」において、東京地裁民事27部の河邉義典・部総括判事が、原田裁判官の講演内容を「10年以上を経過した現在における私どもの認識ともさほど異ならないもの」として照会し、医学的意見書と工学的意見書について、次のように話しています。
医学的意見書に関する部分は、現在でも状況は変わっていません。むしろ、東京海上メディカルサービス株式会社のように、保険会社から依頼を受けて医療情報を提供する専門的な会社組織が現れており、依然として保険会社側が優位に訴訟を進めている実情にあります。……被害者側も、裁判所が認定判断を誤ることがないように、主治医の意見書など、自己に有利な証拠を提出するように努力する必要があります。
工学鑑定ないし工学的意見書に関しては、今日では、裁判所の工学鑑定に対する不信感が広く知れ渡ったためか、むち打ち症の事件で工学的意見書が提出されることは、ごく稀となっています。
(東京三弁護士会交通事故処理員会編集『新しい交通賠償の胎動』ぎょうせい 21ページ)
このように無傷限界値論・閾値論にもとづく工学鑑定書(工学的意見書)の信憑性に疑義が持たれていたことから、1994年に社団法人日本損害保険協会(現在の一般社団法人日本損害保険協会)の委託により「事故解析共同研究会」が組織され、衝突実験が行われました。
研究結果について詳しくは、羽成守=藤村和夫共著『検証むち打ち損傷―医・工・法学の総合研究』(ぎょうせい 1999年3月)にまとめられています。
「事故解析共同研究会」の目的は、東京三弁護士会論文が指摘した問題点の解明とともに、追突事故に関する工学的検討、それによる人体への影響に関する医学的検討、損害賠償面に関する法学的検討などの学際的研究であり、この結果により、現在まで発表されている教科書などで不足している情報を補充し、新たに解明が必要な因子を生理すること、とされました。
実験目的については、
などについて検討を行うことにしたとされています。
衝突実験は、72名の被験者に対し、衝突速度6.3~15.3km/hの範囲で行われ、実験後、自覚症状を訴えたのは14名で、衝突速度は8.0~15.3km/hだったようです。この14名のうち、13名は実験後3日以内に自覚症状も消失し、残り1名についても3週間で自覚症状が消失したとされています。
この実験結果から、衝突速度が16㎞/h未満、車体の平均加速度が1.1~2.1G程度であっても、20%程度の確率で、いわゆる「むち打ち症」の症状が発症することが明らかとなりました。
損保側が主張していた「16㎞/h未満の追突では受傷しない」「追突によって3Gの(平均)加速度が発生しなければ、どのような着座状態でも、むち打ち症は生じない」とする無傷限界値論(閾値論)は、みずからの業界団体である日本損害保険協会が委託して行われた衝突実験により、明確に否定されたのです。
この衝突実験の結果から、ある一定の重力加速度や一定の衝突速度では受傷しないとする無傷限界値論(閾値論)には、「すみやかに終止符が打たれるべきである」との見解が示されました。
こうして無傷限界値論(閾値論)の総本山であった日本賠償科学会(旧・日本賠償医学会)も、「少なくとも現在の工学的問題状況としては、低速度追突事案ではむち打ち症が発症しないという一般的法則性は否定されているといってよい」と指摘するに至ったのです(日本賠償科学会編『賠償科学概説』民事法研究会137ページ(2007年))。
今日、もっぱら無傷限界値論・閾値論のみ主張し、「無傷限界値論を示す工学鑑定書のみによる立証によって、むち打ち損傷を否定することはほぼ不可能」といわれています(『交通事故における むち打ち損傷問題 第3版』保険毎日新聞社 344ページ)。
低速度追突だからという理由だけで、むち打ち損傷の受傷を否定することはできないとしても、だからといって、受傷の態様が、受傷内容や予後に影響を及ぼさないわけではありません。低速度追突であれば、身体に対する衝撃は小さいでしょうから、症状は重症化・遷延化しないのが通常です。このことまで否定されるわけではない、ということには注意が必要です。
この実験により、低速度衝突でも「むち打ち症」が発症することのほか、次のことも明らかになりました。
この研究は、あくまでも低速度の衝突事故を実証したものですが、実験結果より得られた知見を紹介した内容は、従来の固定観念を吹き飛ばすものであり、国内はもとより海外の医学界でも発表され、高い評価を得ています(大内建資「ブック・レビュー『検証むち打ち損傷―医・工・法学の総合研究』」判例タイムズ№1010)。
「低速度の追突事故の場合、むち打ち損傷は発生しない」とする保険会社側の主張は、絶対的なものではありません。乗車姿勢や衝突態様によっては、たとえ低速度追突でも、いわゆる「むち打ち症」の症状を発症する場合があります。
日本損害保険協会の委託による衝突実験から、衝突速度16㎞/h未満、加速度3G未満でも約20%の確率で、いわゆる「むち打ち症」を発症することが明らかとなり、低速度衝突という理由だけで、むち打ち損傷の受傷を否定することはできなくなりました。損保会社が受傷否認の根拠としていた無傷限界値論(閾値論)は、みずから実施した衝突実験により否定されたのです。
ただし、その事故により受傷したことの立証責任は、被害者の側にあります。「衝突時の速度が15㎞/h以下だったから、むち打ちになるはずがない」という理屈は成り立ちませんが、だからといって簡単に、むち打ち損傷の受傷が認められるわけではありません。あくまでも、受傷の立証責任は被害者側にあるので注意が必要です。
低速度での追突であることを理由に、保険会社から受傷を否認され、治療費の支払いを拒否されるなど、お困りのときは、交通事故に詳しい弁護士に相談することをおすすめします。
弁護士法人・響は、交通事故被害者のサポートを得意とする弁護士事務所です。多くの交通事故被害者から選ばれ、相談実績 6万件以上。相談無料、着手金0円、全国対応です。
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【参考文献】
・東京三弁護士会交通事故処理委員会むち打ち症特別研究部会「むち打ち症に関する医学・工学鑑定の諸問題」判例タイムズ№737 4~26ページ
・北河隆之「時速10キロメートルの追突で被害者の姿勢を重視し外傷性頸椎症候群の発生を認めた事例」日本交通法学会編『人身賠償・補償研究第2巻』判例タイムズ社 6~28ページ
・北河隆之「いわゆる『鞭打ち症』に関する『賠償医学』的アプロウチに対する批判的検討」日本交通法学会編『人身賠償・補償研究第2巻』判例タイムズ社 148~179ページ
・北河隆之「『頚部外傷性症候群』再論」日本交通法学会編『人身賠償・補償研究第2巻』判例タイムズ社 180~201ページ
・『交通事故医療法入門』勁草書房 116~119ページ
・『交通事故における むち打ち損傷問題 第3版』保険毎日新聞社 342~348ページ
・『交通事故損害賠償法第3版』弘文堂 209~210ページ
・特集 外傷性頚部症候群 診療の最前線 『臨床整形外科 2023 Vol.58 No.11』医学書院 1301~1359ページ
・ブック・レビュー 大内建資「羽成守=藤村和夫共著『検証むち打ち損傷―医・工・法学の総合研究』ぎょうせい」判例タイムズ№1010(1999.11.15)92~95ページ
・日野一成「(超低速度衝突)むち打ち損傷受傷疑義事案に対する一考察ー工学的知見に対する再評価としてー」J-STAGE
(https://www.jstage.jst.go.jp/article/giiij/79/1/79_159/_pdf/-char/ja)
・日本賠償科学会編『賠償科学概説ー医学と法学との融合ー』民事法研究会 108~147ページ
・日本賠償科学会編『賠償科学 改訂版ー医学と法学との融合ー』民事法研究会 116~155ページ
・東京三弁護士会交通事故処理委員会編集『新しい交通賠償論の胎動』ぎょうせい 17~23ページ
・『交通事故紛争とむち打ち症の診断』共栄書房 69~84ページ